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 最近、やたら人とぶつかり、そしてその誰かはあっという間にその場を去ってしまう。そんな事が妙に増えたと、囚人番号M20715は訝しんだ。ぶつかったのが気のせいという事は無い。ぶつかってきては無言で立ち去って行く囚人の後ろ姿を何度か目撃している。けれど、更正システムの監視の事を意識してしまうためか、一度もそれを制止できた事がない。また、談話室での自由時間でも、明らかに自分にぶつかった囚人の姿を見つけても、その件を問い質す事は出来なかった。とぼけられればそれまでの上、これが自ら揉め事を起こしたと更正システムに認識され評価が下がりでもすれば仮釈放が危うくなってしまうからだ。
 流石に何日も何度も同じ事が続けば、囚人番号M20715も自分が不特定多数の囚人達から的にかけられている事は理解できた。理由は恐らく、どこからか自分の仮釈放が漏れたためだろうと想像がつく。それだけならば問題はなかった。例え幾ら向こうから仕掛けられたとしても、やり返したりせずじっと耐えていれば良いのだ。だが、こちらに対して仕掛けて来た囚人が、これまで一人として更正システムに発覚していない事は明らかに不自然である。そのため囚人番号M20715は、これは更正システムが仮釈放が取り下げられるよう仕掛けて来ている事ではないか、と疑い始めた。更正システム、そして運営会社がそんな事を企む理由は分からないが、更正システムがグルになって彼らの行いを見逃しているのは紛れもない事実である。
 囚人番号M20715は、自分なりに状況を推察する。何故更正システムは、わざわざ自分に墓穴を掘らせるような回りくどい真似をするのか。それは、仮釈放の取り下げ理由として証拠となる映像が必要になるからだ。なら逆に囚人達のする事に乗せられなければ、仮釈放は確定すると言えるだろう。なら仮釈放の降りる日まで大人しくじっと耐え忍び続けるのがベストである。
 確信と自信を得た囚人番号M20715は、その後も続く囚人達の軽微な嫌がらせについても、ただひたすら我慢をし続けた。苛立ちを感じない訳ではなかったが、自分を怒らすのが目的だと思うとたちまち安い挑発に思え、ほとんど腹は立たなくなった。彼らの行為もエスカレートしていく訳ではなかった。それは恐らく、あまりに度を過ぎた挑発をしては証拠とする記録映像を法務省辺りに不自然に思われるからだろう。実際、暴力がエスカレートして重傷を負わされる恐怖はあったものの、現状では杞憂に終わりそうであった。ムーン・ダイヤに、人一人を更生システムに発覚せず暴行を加えられるような死角は無い。そのため良く注意しているだけで避けられる事である。
 そして、囚人達からの嫌がらせにもすっかり慣れてしまった頃。それは突然に起こった。
 午前の刑務作業が終わり、昼食を取っていた時の事だった。また隣からトレイをぶつけられないようにと多少注意をしながら食事をしていた囚人番号M20715は、不意に背中から肩を叩かれた。それは今まで囚人達から受けていたような痛みを与える叩き方ではなく、ただ呼び止めるだけのものだった。それに驚き囚人番号M20715は、すぐさま後ろを振り返る。
「久しぶりだな」
 そこに立っていたのは、もうどれぐらいぶりに見るのか分からない、囚人番号L00012だった。
 途端に囚人番号M20715の脳裏に様々な思惑が交錯する。月の石を求めたのは他意があるのではないか、更正システムに行動を黙認されているのはグルになっているからではないのか、そもそも今まで何処に潜伏していたのか。しかし囚人番号M20715はそのいずれの一つも口には出来なかった。未だ健在の更正システムに咎められる危険があるからだ。
 振り返りつつも、何も言葉を口に出来ない囚人番号M20715。その事情を察した囚人番号L00012は、無表情のまま思わせ振りに深く一度頷いた。
「言いたい事も色々だろうが、まずは今夜だ。自由時間にいつもの場所で」
 それは談話室で二人あれこれ話したスペースの事だろう。そこで何らかの話をしようというのだ。
 そして囚人番号L00012はその場から堂々と去っていった。
 まるで更正システムの監視を意識していない振る舞いに、やはり囚人番号L00012は運営会社側の人間だと確信する。だから今夜の談話室の件も、決して気を抜いてはいけないだろう。仮釈放を取り下げさせるため、何かしら罠を仕掛けている可能性すらあるのだ。
 午後の刑務作業中も、囚人番号M20715は今夜の事ばかり考えていた。作業の遅れを取り戻すべく集中して取り組まなければならないのだが、囚人番号L00012が何を企んでいるのかと想像するだけで気が気でなかった。結局さほど遅れも取り戻せず、午後の作業を終える。そして夕食を取り、入浴を済ませ、囚人番号M20715は硬い面持ちで談話室へと入った。部屋を見渡すと、囚人番号L00012の姿はまだ見当たらなかった。向こうもおそらく話しかける機を見計らっているのだろう。囚人番号M20715は周囲を普段以上に警戒しつつ、談話室の一番奥の椅子に腰を下ろした。