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 翌日になり、再び囚人番号L00012は忽然と姿を消した。恐らくムーン・ダイヤでの残作業を終え既に地球へ戻っているのだろう。囚人番号L00012が再び現れまたすぐに消えた事は噂にはなったものの、それほど広がりはしなかった。囚人達にとってそれは自分の生活に何の影響も及ぼさないのと、既に居なくなった人間の事をあれこれ口にしたところで何にもならないという考えからだった。
 囚人番号M20715の生活は再び落ち着きを取り戻す。模範囚として毎日規則正しく生活し、他の囚人とも一切揉め事を起こさない。時折嫌がらせを受ける事はあっても、一時期に比べ随分と減った。その理由として、囚人番号M20715に不当な行為をした囚人は必ず更正システムに取り締まられるためだ。恐らく囚人番号L00012が取り締まりの基準を元に戻したためだろう。作業部屋に隠していた月の石を持ち出したのも、囚人番号L00012が規則違反を誘発させる証拠になるため、自ら処分したのだろう。囚人番号L00012の残作業とは、そういった自分が会社の命令で行った不正の証拠の始末に違いない。
 もはや囚人番号M20715にとって不可解な出来事は全て説明がついていた。それにより心が落ち着き、再び仮釈放まで模範囚として日々を送る繰り返しが出来るようになった実感があった。
 囚人番号M20715は以前にも増して、日々を真面目に過ごした。刑務作業は積極的に行い、更正システムの指示には迅速に従い、言葉遣いに気をつけ他の囚人達と揉め事を起こさない。時折自分が善良な人間に生まれ変わったかのような錯覚さえ覚えた。しかし囚人番号M20715は、未だに自分の罪状について刑期以外に何の感慨も無かった。それが世間一般では非人道と類される事は知っていたが、改善しようとは思っていなかった。それよりも自分のエゴを優先する、これが二十年に渡って収監されていた模範囚の偽らざる本音である。そしてこのムーン・ダイヤではさほど珍しくもない価値観だった。
 更正の意識など毛頭無い囚人番号M20715、彼がただ仮釈放の一点のみを目的とした偽りの模範囚を演じ続ける生活がしばらく続いた後、それは唐突に訪れた。
 ある朝、囚人番号M20715が普段と同じ時間に起床すると、壁に埋め込まれた端末からメッセージの受信が知らされた。同時に囚人番号M20715の心臓は飛び出さんばかりに高鳴る。それは、更正システムからメッセージが来るのは非常に重要な内容の場合のみであり、今の囚人番号M20715にとってそれの思い当たる節は一つしか無いからだった。
 早速それを確認するや否や、囚人番号M20715は驚きで思わず息をしばらく止めてしまった。そのメッセージには、明日の正午囚人番号M20715に仮釈放が降りる事を知らせる旨が記されていたからだ。そのため今日の刑務作業は中止となり、私物の整理を行うなどの指示が後に続く。囚人番号M20715はそれらを夢見心地でひたすら繰り返し読んだ。
 もし規則違反にならなければ、囚人番号M20715は喜びのあまり雄叫びをあげたいとさえ思った。苦節二十年余り、外界どころか地球からすら隔離された月面の牢獄、そこをやっと出られるのだ。ただただ言葉にならないほどの喜びがあり、囚人番号M20715は涙さえこぼした。
 しばし感動に浸る囚人番号M20715だったが、やがて理性が働き始める。仮釈放が降りる事は決定したが、まだ実際に仮釈放された訳では無い。完全に自由の身となるまでは、模範囚を貫かなければいけない。そして重要なのは今日である。他の囚人達に明日の仮釈放を知られれば、中には血迷って何かしらやらかすような者も居ないとは限らないのだ。
 理性を取り戻した囚人番号M20715は、また普段通りの模範囚に戻った。更正システムに従い規則正しく移動し朝食を取る。そして刑務作業の時間になると、メッセージにあった指示通りに自分の独房へと戻って来る。すると、留守中に更正システムが支給したらしいカバンが房の真ん中に置かれていた。持ち出す私物はここに、という事なのだろう。
 今日中に済ませなければならない事は、さほど多くは無かった。私物の整理と房内の掃除、仮釈放を受ける事前確認事項への同意の三つである。その中でも事前確認については既に同意をしている。後は整理と掃除だが、整理もほとんどやる事は無かった。ムーン・ダイヤに面会はなく、外からの差し入れなども無い。あるのは限られた支給品リストから調達した物だけである。囚人番号M20715の私物もほとんど無かった。気まぐれに取った小説、暇潰しになるだろうと思った木製のパズル、気分転換に良いだろうと考えた奇妙な置物、そういったあっても無くても良いようなものばかりである。着替えの類は更正システムが明日支給するとあり、囚人番号M20715はそれら思い出のがらくたをカバンの中へ放り込む程度しかする事が無かった。
 そんな作業をしながら、囚人番号M20715は密かに顔をにやつかせていた。死刑囚に死刑の執行が知らされるのは、執行日当日の朝だという。仮釈放は一日前だが、それでも唐突な知らせであるのには変わりない。しかし死刑執行とは違って仮釈放は嬉しいものである。期待せずに買った宝くじが当たったような心境に似ている。だから、ひたすら笑いが止まらなかった。声に出さないようにする理性はあるが、流石に表情まではとても抑え切れなかった。