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『間もなく到着します。着地時の衝撃に備えて下さい』
 そのアナウンスと同時にポッドが明らかに減速を始めたのを、囚人番号M20715は機内から肌で感じた。目的地に着陸するため減速している。たったそれだけのアナウンスだが、囚人番号M20715の胸をより高鳴らせるには充分だった。
 指示に従いシートに深く座ったまま着地に備える。ポッドは向きを変えながら着陸態勢を取っているようだった。それが何から何までムーン・ダイヤへ収監された時とそっくりだと囚人番号M20715は思った。しかし、何度も繰り返し思い返しても、今回はムーン・ダイヤからの出所である。これから始まるのは、何者にも縛られない制限のない自由な生活である。
 水平から垂直へ姿勢制御が移り、ゆっくりと下へ向かう。そして僅かな衝撃が背中側へ伝わり、ポッドから絶えず聞こえていた僅かな駆動音が消えた。動力部が火を落としたのだろう。囚人番号M20715は待ちきれないとばかりに呼吸をやや荒げていった。
 乗り込み口ドアのエアロックが外れ、上側へ開く。同時に感じたのは、空気の違いだった。ムーン・ダイヤの空気は人工的に制御されているため、あまりに清浄過ぎる感じがあった。けれど機内に流れ込んできた空気は、何かしら雑味と匂いの入り混じっている。それが自然の空気、地球の空気だと囚人番号M20715は確信する。
『お疲れ様でした。お忘れ物にご注意下さい。当機は定刻通り目的地のーーー』
 囚人番号M20715はアナウンスを最後まで聞かず、まるで食事を終えた子供のような勢いでカバンを引っ付かんで外へ飛び出した。
 ポッドから出た囚人番号M20715が最初に見たのは、青みがかった照明が一定間隔で並ぶ狭い廊下だった。壁も天井も何らかの金属で作られていて、外の景色を見ることは出来なかった。これは恐らく飛行機に乗る時の搭乗口と同じものなのだろう、そう解釈する。それに、自分が地球に到着していることは確信していた。ムーン・ダイヤのように外の景色が見えなくとも、空気の匂いと歩く時に足を離す感覚が明らかに異なるからだ。
 囚人番号M20715は特に案内もなかったが、ただ真っ直ぐ続く廊下を歩いていった。地球の重力は、思っていたほどムーン・ダイヤとは変わらなかった。ムーン・ダイヤでは人工的に重力を発生させて地球と変わらない活動が出来るようになっていたが、本物の重力とは違うらしく、しばらくの間は妙な足の軽さに慣れなかった記憶がある。その当時の事を思い出し、今度は逆の状況になるかと思っていたが、少し歩いただけで体は馴染んでしまった。恐らく、人間の体は地球の重力に最適化された形で生まれつくのだろう、とそんな事を考える。
 やがて囚人番号M20715は正方形の形をした休憩スペースに出た。そこには長椅子とウォーターサーバが備え付けられていた。こんな人の気配もない所をメンテナンスする者がいるのだろうか。囚人番号M20715はそんな事を考えながら、カバンを長椅子に置いてサーバから水を汲む。長くポッドに乗っていたため、酷く喉が渇いていた。紙コップの水が驚くほど美味く感じるのは、渇きの他にこれが地球の水だから、というのがあるだろう。そんな事を思いながらほくそ笑み、もう一杯水を汲む。
 そしてそれは、囚人番号M20715が二杯目の水を口にする瞬間に起こった。突然、風船を割るような破裂音が室内に響く。同時に背中に何か熱いものをねじ込まれる感覚が伝わった。
「……え?」
 囚人番号M20715はこの出来事をすぐには理解出来なかった。破裂音と自分の体の異変、そこからすぐに結び付けるにはあまりにムーン・ダイヤでの生活が長過ぎた。
 まさか、自分は撃たれたのか? 拳銃で?
 その答えに辿り着いたのは、俄かに口の中に広がった血の味を自覚したからだった。途端に全身からどっと力が抜け、腰が抜けたようにその場に両膝をつく。
「何故撃たれたか、分かるか?」
 その質問は、囚人番号M20715の背中側、丁度銃弾を発射した側から聞こえてきた。咄嗟に囚人番号M20715は両手を上げる。
「ま、待て。俺は仮釈放されてるんだ。脱走してここにいる訳じゃない。ちゃんと法務省に問い合わせてくれれば分かるはずだ」
「そんな事は知ってる。俺は、恨みを晴らすためにここに来ているんだ……!」
 やや興奮気味に語尾を強めるその男。声色は自分よりやや若いだろう。そして聞き覚えはないが、明らかに自分に対して殺意を向けている事が分かった。
「あ、あんたは一体誰だ? 俺はもう長いこと月に居たんだ。何か恨みがあるとしても、俺は人違いじゃないのか? な? 落ち着いて確かめてくれたら分かるって」
 明らかに状況が悪い。囚人番号M20715はすかさず背中側の男に命乞いを始める。だがその男は、囚人番号M20715の言葉に対して更に怒りを露わにした。
「お前はメルヴィン・スキナーだろ? 俺はロイド・ウェイクマンだ。この名前に聞き覚えが無いとは言わせないぞ」