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 その日の朝は、エリック普段よりも僅かに早く家を出た。そして普段とは少し違う通勤経路を辿り庁舎の方へ向かう。途中、エリックはとある町角の一画で足を止める。そこは人がごった返す通勤経路からやや外れた穴場になっていて、行き交う人がほとんど無い。そしてその穴場には靴磨きを営む少年の姿があった。
「お兄さん、おはよう」
「おはよう。またちょっと頼むよ」
 エリックは先払いで料金を支払い、台の上へ片足を乗せる。靴磨きの少年は早速手慣れた手付きでエリックの靴を磨き始めた。
「随分汚れてますね。また外回りの仕事ですか?」
「普段はほとんどデスクワークなんだけど、たまに外を駆けずり回る事があるとね。昨日も一日中出突っ張りだったんだ」
 そんな世間話をしながら靴を磨いて貰うエリック。この少年がここで靴磨きをしている事を知ったのは、二ヶ月ほど前の事である。身なりに神経質に気を使う質でもないエリックは、靴の多少の汚れくらいならば自分で適当に磨いて済ませる。しかし最近はもっぱらこの少年に磨いて貰っていた。
 セディアランドには孤児に対する国の保護制度はあるものの、未だ充分ではなく貧困に喘ぐ児童も少なくないと聞く。彼らは生活のために犯罪へ走りやすいのだが、中にはこうして自活している者もいる。行政が万人に完璧な手当てが出来る訳ではないが、こういった孤児が犯罪へ走る事を未然に防げるならと、そういった気持ちでエリックは利用していた。
「ところでお兄さん、今日は傘は持ってきている?」
「傘? いや、持ってきてないよ。それにほら、これだけいい天気だし、降りそうもないからね」
「けど、今日は午後から一気に崩れるよ。用心しておいた方がいいね」
「そうかあ。そういや君の予報は良く当たってたね。じゃあ途中で傘でも買っていくよ」
 この靴磨きの少年は、磨いている最中に頼んでもいないのに天気予報をする。最初は単なる世話話の一環と思いあまり真に受けていなかったのだが、これがどういう訳か予報は必ず的中する。先月も季節外れの雪が降る事を当てているため、彼の天気予報をエリックは信用していた。本来、天気予報はあらゆる過去の記録とその日の気候の観測値を元に弾き出すものだが、彼には当然そういった背景はない。おそらく経験則からの勘なのだろうが、こうも的確な勘は非常にありがたいものだ。
「さあ、出来ましたよ。お気をつけて」
「うん、どうも」
 エリックは、天気予報代として僅かな小銭を渡してその場を後にする。そして登庁する前に露天で中古の傘を一つ買って行った。
 その後いつも通りに登庁し午前中の仕事を終え、昼食から戻った頃だった。不意にマリオンが外を見ながら声を上げる。
「うわ、凄い雨が降り出しましたよ。朝あんなに晴れてたのに」
 エリックも窓の外を見てみると、マリオンの言う通り外は目に見えるほど大粒の雨が勢い良く降っていた。空にはどんよりとした色の濃い雲がひしめき、如何にも通り雨では済まないという様相である。
「えー、ひどいなあ。ま、私は置き傘があるからいいけど」
「俺はレインコートがあるからな。軍制品のいいやつだぜ」
「あのゴム臭いやつ? ちょっとダサいよねー」
「機能美だ、機能美。無駄がねえんだよ。分かってねえなあ」
 ウォレンやルーシーは予想外の雨の備えはしているようである。エリックは特に何の準備もしていなかったため、今朝靴磨きの少年に教えて貰っていなければ傘も準備出来ず立ち往生する所だった。
「私、傘持ってきてなかったなあ。ねえ、エリック先輩。家まで送ってくれます? 傘に入れて欲しいなあ」
「いいよ、それくらい。ま、この雨ならしょうがないさ」
「そう言えばエリック先輩って、今朝傘を買ってきましたよね。雨が降ること知っていたんですか?」
「まさか、そんな事無いよ。偶然さ。単に露天でふと見かけたのが気に入っただけ。それに置き傘もしてなかったからね」
「あれが? エリック君てなかなか先輩並みに趣味悪いねえ」
 そうルーシーが茶々を入れ、エリックは思わず顔をしかめる。本当に気に入った訳ではなく、単に安いから買ったに過ぎない。今日の雨がしのげればそれで良かっただけなのだ。
「つーか何で俺を引き合いに出すんだよ。俺のは機能性重視だって言ってんだろ」
「なかなか乾かなくて臭いがこもる重たいレインコートが? ま、先輩の趣味だからとやかく言いませんけどー」
「さっきからとやかく言ってんじゃねーか」
 傘の趣味はさておき。あの靴磨きの少年の予報の事を言わなかったのは、彼の予報が今後も必ず当たるとは限らないからだ。仮に外れた所でエリックは自分一人なら何とも思わないが、集団がそれを当てにして外したなんて事を彼が知れば、何かしらプレッシャーに感じるのではないかと思ったからだ。