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 目を覚ましたのは、見慣れない古びた部屋だった。地味なベッドに布団を掛けられて横たわっている。すぐ横の窓からは西日が差しているため、夕方くらいの時刻だろうか。体にはあちこち痛みがあったが、薬の臭いと包帯の感覚から、既に手当てされていることが分かった。
「ここは……」
 ぼんやりとそう呟いた直後だった。
「エリック先輩!」
 傍らから悲鳴のような大声を掛けられ、エリックは肩を大きく震えさせる。
「……え? マリオン?」
「はい! 良かったあ……本当に無事で……」
 マリオンはエリックの右手を握り締め、頬で体温を感じ、それを胸に抱くようにしてしくしくと泣き出した。余程心配をかけたのだろうか。突然泣き出され、エリックは困惑する。そして何よりも、マリオンが感極まって自分の手を胸に抱いているせいで、その感触がどうにもばつが悪かった。
「マ、マリオン? 心配かけたのは謝るけど、手を離して貰えるかな? その、手が、ね?」
「あっ……」
 エリックに何を指摘されているのかしばらく考えるマリオンだったが、ふとそれに気付くと慌ててエリックの手を離した。
「ごめんなさい、私、エリック先輩が事故に遭ったって聞いて、凄く慌てて……。ところで、もう少し大きい方が好みだとかあったりします?」
「そういう話はしてないよ」
 ああ、この唐突な会話、間違い無く本物のマリオンだ。そうエリックは安堵する。
 どうやらあの盛大に転倒した後、運良く誰かに拾われたようである。九死に一生を得るとはまさにこういう事を言うのだろう、ただただ幸運としか言いようがない。
「僕はどれくらい眠ってた?」
「特務監査室に連絡が来たのは昨日の夕方です。それから私が徹夜で来ましたから、今日で大体三日目くらいだと思います」
「え、そんなに経つの!?」
「はい。お医者様のお話ですと、右足の捻挫と全身の軽い打撲、それからとにかく疲労が酷いとの事でした。でも、目が覚めたなら明日にでも帰って大丈夫だそうですよ」
「疲労が酷い、か……」
 確かに、あの得体の知れない何かと夜通しで追いかけっこをしたが、果たして三日近くも昏倒するほどの疲労になるだろうか。頭を打った覚えも無いのだが。
「ねえ、マリオン。僕のカバンはある?」
「はい、そこにありますよ」
 そう言ってマリオンはエリックのカバンを手渡す。早速中身を開けてみると、回収したあの宝石は未だに健在だった。
「それって、先輩が回収しに行ったものですか? 呪いの宝石とか何とか」
「らしいね。疑ってたけど、正直この状況じゃちょっと笑えないな」
「やだ、エリック先輩らしくありませんよ」
 この呪いの宝石のせいで疲労困憊になっている可能性はないだろうか。例えば、この宝石が知らず知らずの内に体力を奪い、それが原因で物事が上手く行かなくなるといったものだ。
 しかし、もうそんな事を検証する必要は無い。聖都へ戻ったらすぐさま隔離倉庫行きになるのだ。二度と世間には出回らず、不幸を呼ぶ宝石などといった迷信も語られる事はない。
「本当に先輩が無事で良かった。落石事故に遭って、自力で下山したって。峠には危険な野生の獣もいるから、本当に危なかったってみんな言ってましたよ」
「それだけ?」
「それだけって、他に何かありました?」
「そう……。僕も夢中だったから最後までは良く憶えてないんだけれど。まあ、知っている分は追々話すよ。今はちょっと疲れてて、仕事の話はしたくないや」
「そうですね。あ、ところでお腹空いてません?」
「空いてるような、空いてないような……」
「ずっと食べてないんですから、何か食べないと体に良くないですよ。リンゴ剥いてあげますね」
 そう言ってマリオンは、ベッド脇にあったサイドボードの上からリンゴを一つ取った。そこには真っ赤なリンゴがカゴ入りで積まれてあった。見舞いの品だろうか。
「そのリンゴ、どこから?」
「さあ、分かりません。私が着いた時にはもうありましたから」
 慣れた手付きでリンゴを剥きながら答えるマリオン。
 自分も特には村に親しい者などいないが、誰か親切心で置いてくれたのだろう。
「はい、できました。あーんして下さい」
「自分で食べられるよ」
 マリオンの悪ふざけには付き合わず、剥いたリンゴを一つ取って食べる。それは驚くほど蜜の詰まった甘いリンゴだった。もし聖都で同じ物を買うとしたらそこそこ値が張る部類だろう。このリンゴには、何らかの意図や思惑が込められているような気がした。
 あの出来事は夢だったのだろうか。リンゴをかじりながらそうエリックは考える。普通ではない疲労状態だったのなら、そういった幻聴や幻覚があってもおかしくはないのだ。けれど、本当にそうなら今もなお自分以外も巻き込んだ進行状態でなければ辻褄が合わない。やはり自分の考え過ぎだろうか。
 翌日、エリックは村人達に挨拶をするついでに経緯を訊ねてみたが、誰も落石事故以外の事は答えなかった。村人達がやまのけについて全く言及しないのは、あまりに不自然である。それとも単に外の人間は信じようとしないからと高をくくって話さないのか。
 果たしてやまのけは、御伽噺以上の存在なのか。こうして言い伝えばかりが一人歩きし、未だに何も解明されないのは、彼らがそう望んでいるからかも知れない。
 聖都に戻ってもエリックは、やまのけについての一切を報告書には残さなかった。