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「あー、もう。ちょっとは静かにしなさいよう!」
 特務監査室に登庁して来たエリックは、その日は珍しく一番最後の登庁だった。
 執務室に入るや否や、珍しく苛立った声を上げるルーシーにエリックは何事かと小首を傾げる。いつもマイペースな彼女が苛立ちを露わにするのは非常に珍しい事だからだ。
「おはようございます。何かあったんですか?」
「よう。ま、ちょっとした厄介事だ。もしかすると、俺ら向きなのかも知れないけどよ」
 そう話すウォレンは、どこか楽しんでいるかのような半笑いだった。
 特務監査室向きと言えば、非科学的な超常現象という事である。エリックは未だに否定的なスタンスであるが、それはそれとして職務として割り切るようにしている。しかし、この言葉だけでも既にエリックの心は身構えてしまった。
「おはよう、エリック君。良かったらあれ、ちょっと見てもらえるかしら」
「はあ、何でしょうか」
 室長が示す先では、ルーシーがいつものように応接スペースで菓子を広げて食べていたが、そこに一匹の黒い猫がまとわりついていた。猫はルーシーの菓子をつついたり、あわよくば掠めとろうとしてはルーシーに制される。しかしそこで標的がルーシーへ移り、じゃれついている所をルーシーが邪険に離している。そんなやり取りを延々と繰り返しているのだ。
「おはようございます、エリック先輩。あれ、ルーシーさんの親類の方の猫だそうですよ」
「ルーシーさんの?」
 すると、ルーシーは全力でそれを否定した。
「昨日親戚が急にうちに来て、もう面倒見切れないって押し付けて行ったのよ。うちはママが猫アレルギーだって言ってるのに。それで今日は仕方なく連れてきたの」
「随分と無責任な飼い主ですね。最後まで責任を持てないなら、始めからペットなんて飼わなければいいのに」
 要らなくなった猫を路上に捨てるのは忍びないと、親戚に押し付けていくとは。捨てるよりマシかも知れないが、責任の放棄には変わりない。
「ペットって言っても、何だか訳ありらしいのよねー。ほら、うちの家系って霊視とかお祓いとかやってるから分かるんだけれど。そういう親戚が匙を投げたのよ、コイツには」
 忌々しげな表情で猫の頭を指でグリグリと押し込むルーシー。しかし当の猫は遊んで貰っているとばかりに一層はしゃぐばかりだった。
「何かあるんですか、この猫? 見た限りでは、特におかしな所はありませんけれど」
「そうなの。私達もそれが良く分からなくて困っているの。向こうも何も教えてくれないそうで。緊急性は無いようだけども」
 そう珍しく困り顔の室長にも、この猫が何なのか心当たりが無いようだった。
「本当のこと教えたら返品されるって思ってんでしょーよ。ったく、腹立つなー。なーにがうちらの手には負えない、よ」
 愚痴っぽく事情を話している間も、猫はルーシーの袖を引っ張ったりと執拗にじゃれついて来る。それをルーシーは心底迷惑そうに払うのを繰り返す。走り回るよりは人に構って貰いたいタイプの猫だろう、そうエリックは動向を見ていて思った。
 何か訳ありの猫と言うが、こうして見ている限りでは単なる遊び盛りの子猫にしか見えない。そのためエリックは、今のルーシーや親戚に邪険にされる猫の身の上に同情的になった。
「良かったら僕が引き取りましょうか? 何のいわくがあるか知らないですけど、どの道本当かどうかも検証しないといけないですから」
 ルーシーにそう提案してみるエリック。すると不機嫌だったルーシーの表情はころっと一変する。
「え、本当? じゃあ任せた! はい、ほら、これからはあっちのお兄さんが遊んでくれるってよー」
 ルーシーはすかさず猫をエリックへと押し付ける。随分な扱いだと眉をひそめつつ、エリックは猫を受け取り抱きかかえる。猫は初めじっとエリックの目を覗いて来たが、やがて何かが気に入ったのか、すぐにこれまでルーシーにしていたようにエリックにじゃれつき始めた。
「はー、お前凄いなあ。何があるのか分かんねえってのに。大体黒猫ってのは魔女の使い魔だから不幸の象徴なんだぜ。お前、不幸になるぞ」
「僕はそういう迷信は信じませんよ。猫はいいじゃないですか。ネズミや虫も追い払ってくれますから」
 リアリストだなあとウォレンは苦笑いを浮かべる。黒猫が不幸を呼ぶのは昔からある迷信だが、本当にそうならばとっくに黒猫は人間に絶滅させられているだろう。つまり、ただの迷信だと思う人間が圧倒的多数派なのだ。
「じゃあエリック君、悪いけどしばらくの間お願いね。日中はここへ連れてきて、ちゃんと観察はしておいて」
「分かりました。ところで、この猫の名前は何ですか?」
「ゴールドよ、ゴールド。一応、自分の名前は分かるみたい」
「黒猫なのにゴールドなんですか? また変わってますね」