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 突然現れた女の幽霊に、エリックは内心驚きと困惑を隠せなかった。世間では曖昧で朧気な存在のように語られる幽霊が、これほど呆気なく登場し、あんなにくっきりと明瞭に見えるものだとは思いも寄らなかったからだ。
「エリック、お前はフィリップの所に行け。俺は今の幽霊を探す」
「分かりました。気をつけて」
 これで幽霊を見るのを二回目にしたくはない。自分は本当に正気なのか診察が必要ではないのか。そもそもこれは集団パニックの一種ではないのか。そんな様々な否定的な見解を思いながら寝室へ急ぐエリック。
 廊下の途中でウォレンとは別れ、ウォレンは他の部屋を探し始める。エリックはその間に寝室へと入った。
「失礼します! フィリップさん、起きて下さい!」
 大声を出しながら寝室へノックもせずに飛び込むエリック。しかし、寝室には肝心のフィリップの姿が無かった。不審に思い、寝室中を探してみるものの、どこにもフィリップの姿は見当たらない。彼は不調を訴えて休んでいるはずではなかったのか。
 寝室には夫婦用のダブルベッドに二人分のクローゼット、窓際には鏡台が置かれている。夫婦生活を連想させる家具ばかりだ。結婚当時から死去した後もそのままになっているように見受けられる。
「あれ? これは……」
 ふとエリックは、鏡台の違和感に気がついた。鏡台を使わない時は掛け布を掛けておくものだが、掛け布が横へ畳んで置かれていたのである。そして更にその脇には、明らかに男性用の寝間着が脱ぎ捨てられていた。
 これはフィリップのものだろうか。寝間着から着替えたのは外出するためなのか。それに、何故鏡台から掛け布が外されているのか。見た目を確認するのに使うにしても、クローゼットの傍にある姿見の方が良いのではないか。こちらの掛け布はそのままになっているのに。
 それらの疑問に悩んでいると、今度は寝室の外からウォレンの声が聞こえて来た。
「おい、エリック。ちょっとこっち来い」
 振り返るとウォレンが寝室の外から手招きしている。しかしウォレンは普段の騒々しい振る舞いと打って変わり、やけに声を潜めていた。
「フィリップさんはいませんでした……それで、どうしたんですか?」
「奴なら見つけた。でも、ちょっとやべーんだ」
「やばい? どういう事です?」
「とりあえずこっち来い。それと、迂闊に騒ぐんじゃねーぞ」
 まるで事情が見えなかったが、ウォレンの言葉に従い口を噤んで寝室を出る。ウォレンの後に付きながら向かった先は、途中の廊下を曲がった所にある台所だった。
 ウォレンは台所の入り口で屈み、奥を見ろと指で指し示す。エリックは同じように屈んだ姿勢を取って、示された先を見る。
 そこに居たのは、料理をしている先程の女性だった。あまりに堂々とした振る舞いと存在感に、エリックは驚くよりも呆気に取られてしまう。幽霊も料理をするのかなどと一瞬考え、あれはむしろ本物の人間ではないのかと判断するエリック。しかし、一体いつの間にどこから侵入して来たのか。そもそも何が目的か。
 そう思いながら様子を窺っている内に、エリックはある事に気付き、傍らのウォレンに目で合図する。
 台所で料理をしているのは女性ではなく、女性の寝間着を着たフィリップだった。顔には化粧も施しているが、化粧の分からないエリックから見ても明らかにおかしな化粧である。そして肝心の料理だが、鍋の異臭や包丁の扱いの辿々しさから、全く上手くいっていないように見受けられる。それでも失敗に気付いていないのか料理そのものを止めようとはしない。
 一体これはどういう事なのだろうか。エリックは目の前の状況に困惑するばかりだった。この振る舞いは、まるでフィリップが亡き妻の行動を演じようとしているとしか思えない。しかし、こんな行動の話は聞いておらず、そもそも深夜に突然始める動機が分からない。そして、普段とは違って自分達がいる事も忘れているようにしか思えない。自分がしている事に自覚が無いのではないのだろうか。
 彼は正気なのか。
 エリックはまずそれについてを疑った。正気ではないのだとすれば、夜な夜な妻の幽霊が来るという発言も、狂人の戯言だと説明がつく。それではこれは、妻を失ったショックに耐えきれず狂ってしまった、そういう事なのだろうか。
「ウォレンさん……これ、どうしましょうか?」
「いや、俺に訊くなよ。ああいうのの話し相手はお前の仕事だろ。俺は交渉下手だっていつも言ってるだろ」
「そうは言いますけどね」
 とても気安く話し掛けて良いような雰囲気ではない。エリックは苦虫を噛み潰したような表情で逡巡する。
 そして二人は何も出来ないまま、ただひたすらフィリップの行動を見張り、やがて朝方になりおもむろに寝室へ戻っていくのを見届け、ようやく安堵の溜め息をついた。