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「え、本当にそんな事をしたんですか!? エリック先輩が!?」
 心底驚いた表情のマリオンは、手にしたキャンバスとエリックを何度も交互に見比べる。
「……仕方ないよ。他にどうしようもなかったんだから」
 北区にある第九番倉庫。その十二号室には、様々な曰く付きの絵画が収容されている。二人は先日の事件で回収した絵画を収容するために来ていた。しかしその絵画は、驚くことに漠然と塗られた背景だけの絵になっている。マリオンも回収時の絵画は見ているため、今自分と手にしているキャンバスがそれと同一の物とはにわかには信じられなかった。更に信じられないのは、この事をエリックが知っていて黙っていたという事だ。
「帳簿への登録手続きが済むまではうちに持って帰っていたんだけれど、夜な夜な絵画が話し掛けて来るんだ。自分はあの人の元へ行きたい、だからどうか見逃して欲しいって。本来はこの絵画は焼却処分が妥当だ。幽霊が取り憑いた絵画なら、幽霊自体はこの倉庫に隔離できる。前も話したように、生前に壁はすり抜けられないものだという固定観念が染み着いているから、幽霊になってもそれは同じだからね。けれどこの絵画は違う。どういう理屈なのか、生まれついての幽霊みたいなものだ。だから壁なんて無いのと同じにすり抜けられる」
「だから警備の厳重な警察署の中とかに現れていたんですよね」
「そう。閉じ込めておくことが出来ないなら、後はもう燃やすしかない。それが一番世間を混乱させないからね」
 しかし、エリックはそうしなかった。帳簿へ登録した後は、ここにある幽霊絵画と同様の扱いをした。それは逃亡を黙認したようなものである。マリオンはそこに驚いていた。
「正直、人の言葉を話す存在を燃やす事に躊躇いはあったんだ。人を殺しているような気がするからね。だから利害が一致したとも言えなくもない。僕がここに収容するから、後は勝手に出て行けばいいって」
 そして、今日確認してみたところ案の定である。倉庫には空のキャンバスだけが残されていた。
「それで、エリック先輩。このキャンバスはどうしましょう?」
「……取りあえず、そのままここに仕舞ってとぼけておくよ。念のため、厳重に封印をして中を簡単には見られないようにしてね」
「それで、何だか色々な道具を持ってきたんですね」
 空のキャンバスが見つかれば、担当者であるエリックの管理不行き届きという事で引責となるだろう。そのため、簡単に空のキャンバスを見られないように封印をするのだ。しかしエリックは実際のところは露見しても構わないと思っていた。特務監査室では、よほどの事でない限り懲戒免職はあり得ない。それだけ人材が貴重な部署だからだ。だからと無責任な仕事をする訳ではないが、今回に関しては私情を優先してしまった形になる。
 エリックとマリオンは持ってきた資材と道具でキャンバスを厳重に箱詰めにして封印をする。最後に、中に封印されている幽霊は特に厄介であるため、決して開封しない旨を書いたラベルを蓋に貼る。後は倉庫の奥に押し込み、このまま皆の記憶から消える事を願うばかりだ。
「ねえ、エリック先輩。結局なんですけど、あの絵画の女性って一体何なんでしょう? 幽霊ではないって事なんですよね?」
「さあ、僕からはなんとも。ルーシーさんに聞いた感じでは、そもそも万物には心性が宿っていて、何かのきっかけで神様に近付けるらしいんだけど。あの青年の想いの強さがキャンバスの心性を目覚めさせてああなったとか」
「……ごめんなさい、私には全然理解出来ません」
「僕も同じだよ。とにかく、物に心が宿るとも違うそうだし、何か不思議で珍しい現象だという事だそうだよ」
 二人は今回の一連の現象について、ほとんど理解していない。むしろ正確に理解しているのはルーシーくらいなのだろう。幽霊が無機物から生み出される発想は、説明としては憶えられても理解は出来ないだろうと二人は思った。セディアランド人に理解出来ない事がセディアランドで起こる。それはつまり、今回の件もこの世では普遍的な事なのだろう。
「それで、この女性はあの人の所へ行ったという事でしょうか」
「多分ね。以後こういう騒ぎは絶対に起こさない約束をしているから、それを守ってくれているなら僕達とは二度と会う事はないだろうね」
「何だか駆け落ちみたいですね」
「そこまでロマンティックなものかな。得体の知れない相手なのに」
 仮に今回の事件を題材にして恋愛小説を書いた所で、どこに需要があるのかをエリックにはまるで見込めなかった。そもそも人間以外との恋愛など成立するものなのかという根本的な疑問がある。その垣根について大らかな文化の国があるかも知れないが、少なくともセディアランドでは受けは悪いだろう。
「ところで、エリック先輩。どうしてこの事に私には打ち明けてくれたんです? 一人で黙ってても良かったんじゃ。エリック先輩の仕事なら、誰も疑ったりはしないですよ」
「何となくね、誰かとこの秘密を共有しておきたかったんだ。いい加減、何もかも心の重荷になるようなものを一人で背負うのは大変だから。ここの仕事は、真面目にやればやるほど本当におかしくなりそうになる時があるんだよ」
「そうなんですか? フフッ、私はエリック先輩のそういう真面目なとこ好きですよ」
 そう笑うマリオンの反応は、やはりエリックの想像した通りだった。特務監査室の人員で、こういった弱音をはける相手はマリオンしかいない。ウォレンは、逆に自分が精神的な支えになっているため頼り難い。ルーシーに至ってはドライで親身になる素振りも見せないだろう。その点、マリオンは機転もきかせるし話も一生懸命聞いてくれる。特務監査室の非常識な仕事に疲れた自分には、とにかく優しい聞き役が必要なのだとエリックは最近特に思い始めていた。
「ねえ、先輩。せっかくだから、どこか喫茶店に入ってお茶でもしていきません? どうせ仕事も暇なんでしょうし、すぐ戻る事もないですよ」
「それは駄目。作業が終わったらすぐ戻る。僕らは税金で働いてる官吏なんだから、業務中は遊んだりしない」
「んもう。エリック先輩ってやっぱり固いですよね。でもこういう真面目なとこも好きです」