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 事は一週間ほど前に遡る。
 その日、エリックは半休を取ってある病院を訪れていた。そこは心療内科の専門医で、聖都でも進んだ治療などに力を入れているという評判だった。
 初めての心療内科、緊張しながら入った待合室は、想像していたよりもずっと静かだった。それなりの数の患者がいるのだが、読書をしたり壁に掛けられた絵を眺めていたり、落ち着いた様子である。独り言を延々と続けているとか、壁に額をぶつけているとか、そんな偏見じみた想像をしていたエリックにとっては拍子抜けだった。
 やがて自分の診察の番が来て、エリックは指定された診察室へ入る。医者はエリックよりやや年上くらいの若い青年で、非常に物腰が柔らかく朗らかな印象を受けた。患者が接しやすい人間である事を努めているのだろう、そうエリックは思った。
「それで、エリックさん。どのような困り事でしょうか?」
「実は……数日前から幻聴が酷くて」
「幻聴? それは、具体的にはどういった内容です?」
「事ある毎に、僕に対してあれこれ指示するんです。仕事はこちらを先に片付けろとか、この道は右折しろとか。まるでアドバイザー気取りで。挙げ句、昼食は魚ではなく肉にしろとか、糖分はしばらく控えろとか、栄養管理までしようとするんです。いえ、それ自体はどうでもいいことなんです。僕はいちいち惑わされませんし、自分で決めた事を決めた通りにやるだけですから。ですが、幻聴が聞こえるという事は、もちろん普通の状態ではないという訳で。ですから、早期に治療出来れば良いかと」
「なるほど。では、あなたは幻聴が幻聴であると分かっていて、なおかつ自分がちょっと普通じゃないのではと客観的に見ることが出来ている訳ですね」
 医師はカルテに何事かを書きながらそうエリックの症状を分析する。
「実のところ、幻聴なんてそれほど珍しい症状でもないんですよ。幻聴の正体は、主に自分の思考が言葉として聞こえているだけなんです。文字を読む時に、心の中で声に出すタイプの人がいますが、それの延長みたいなものですよ」
「では、幻聴が聞こえる原因は何でしょうか?」
「一番多いのはストレスです。ほぼそれと断言してもいいでしょう。特に多いのが仕事関係のストレス、次は人間関係、これらの複合なんてケースもありますね。どうです、エリックさん。お仕事でストレスは感じられますか?」
「そうですね……普通より多いと思います」
 実際のところ、ストレスを感じない事の方が少ない程である。未だ非科学的なものを当たり前のように扱っている事が受け入れられないでいる部分は残っているし、理屈に合わない事もそれはそういうものだと受け入れなければならないシチュエーションがしょっちゅうである。こんな職場でストレスフリーに振る舞うなど到底無理だろう。
「お仕事を自分でコントロール出来ない状況に苦しめられている人に良く見られる症状ですよ。本当は自分ではこうしたいのに、状況がそれを許さない。これが心理的な圧力となり、やがて本当に自分がしたい事が声となって聞こえてくるのです。エリックさんの症状もそれでしょうね」
「これは、完治は難しいのでしょうか?」
「いえいえ。エリックさんの場合ですと、まずそれが幻聴であるという認識がありますし、自発的に治療する意思もあります。ですから、それほど深刻な病状ではありませんよ。ところで、夜は眠れていますか? 休息が取れるかどうかで、症状が回復するか悪化するか大きく変わってきますから」
「今のところ、睡眠はほとんど変わらないと思います。時々夜中に目が覚めるようにはなりましたが」
「ではひとまず、本格的な投薬治療はしない方が良いでしょう。軽い眠剤だけ出しますので、どうしても眠れない時があれば使って下さい。後は休息をもっと意識して取る事ですよ。それは風邪と変わらないんです。誰だって、風邪を引いたら休息を取るようにするでしょう?」
 そして、医師から幾つかの指導を受けた後、精算を済ませ処方された薬を持ってエリックは病院を後にした。
 心療内科にかかるのは初めての経験だったが、医師の診断は概ね予想通りのものだった。そして、
『だから言っただろ。医者なんてかかるだけ無駄だって。俺はそういうのとは違うんだから。時間と金を無駄にしたな。こんなことしなけりゃ、終わってないファイル整理が午前中に片付いてたってのに』
 エリックの耳元から男の呆れた声が聞こえてくる。しかしエリックは一切声には反応せず、無表情のまま淡々と道を歩き続ける。
『何だよ、最近反抗的だな。わざと俺の言うことの逆張りしてないか?』
 これは本当に幻聴なのか。明らかにこちらの行動に則した語彙を使ってきているように感じるのだが。それとも、幻聴とは己の思考の渦から産まれるものだから、そういうものなのか。
 様々な疑問はあったが、やはり医者の見立てを信じるのが一番である。幻聴が聞こえるような事態に陥ったのは仕方がない、職場はこの上なく異常なのだ。むしろ、今までずっと正気だった方がおかしい。
 ともかく、自分には休息が必要らしい。そうしなければ、この幻聴は消えることはない。少し何もしない時間を増やしていこう。そうエリックは今後の自分について算段を立てるのだった。