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 夕方頃になり、リアンダは自宅アパート近くにある行きつけの店に入り食事を済ませた。帰路につくとやたら体が重く疲れ切っているのを感じた。今日の荷物量はさほど多くはなかった。疲れは体の疲労よりも気疲れに近い。それだけの重大な選択を今日は迫られたのだ。
 自室に入り明かりをつける。すると部屋の中には一人の男が椅子に座って待っていた。
「よう、お邪魔してるぜ」
「……分かっててもあんまり心臓に良くないな」
 男の名はウォレン、特務監査室の人間である。リアンダが特務監査室に漏らしたグリゼルダチェアの情報が事実かどうか確認が取れるまでの監視と、リアンダの裏切りが大地と赤の党に露見した場合の護衛を兼ねている。ウォレンは超常現象の知識があるだけでなく、退役軍人であるため体格も良く荒事にも慣れている。万が一の時は頼もしい護衛になるが、彼がいる以上は決してどこにも逃げる事は出来ないだろう。
「どうやって入ったかは訊かないけど、誰にも気付かれてないですよね。ここは大地と赤の党の連絡係も知ってるし、時々手紙を部屋の中に置いていくんですよ」
「ああ、これだろ? さっき来てたぞ。暇潰しに解読してた」
 そう言ってウォレンは無地の封筒をリアンダに渡す。
「ちょっと! 見つかってないですよね!?」
「この部屋を監視できる場所は予め全部調べてる。部屋に入って来たやつだって、所詮は素人だ。見付かるわけねーよ。それと、その暗号はもうちょっと何とかなんねーのか? 素人丸出しの文章じゃねーか」
 そう言って呆れ顔をするウォレン。彼にとって大地と赤の党の監視の目を潜ったり暗号を解読するのは、本当に容易な事であるらしい。組織にはこういったことを考案する専門家はいないのだ。
「……首相一派を逆恨みしてる連中の集まりなんですから、そんなものですよ」
「組織ごっこはテロ大好きな連中の特徴だしな。それで、指定の場所はこの近くだったぞ。ほら、お前の良く行ってる店の近くの橋の下。今日の夜中の零時って、また随分急だな」
 呼び出し場所自体は今までにもあった知っている場所である。こんな急の呼び出しも珍しい事ではないが、タイミングがいささか気になった。まさか特務監査室と通じた事が既に露見していないだろうか。
「一応、ついてきて貰えますよね?」
「まあな。基本的に俺はお前の護衛と監視だからな。おかしな事さえしなきゃこっそり見てるだけだし、向こうの幹部も勝手に抑えるような事はしねーよ。そういう命令じゃねーからな」
「だったらいいんです」
 そもそも計画を決行する間際の状況なのである。突然の呼び出しもあって当然だ。しかし、背信の後ろめたさがリアンダを緊張させる。大地と赤の党になど心から忠誠など誓っていない。それなのに、こんな呼び出し一つで罪悪感が生まれるものなのだろうか。
「それで、呼び出し相手は? それと用件も」
「分かりませんよ、そんなの。多分、直属の上司だと思いますが……。用件はそれこそ言ってみないことには。あの計画に関連する事とは思いますがね」
「ふーん、なるほど。とりあえず、俺が見聞きした事は報告すっから、悪く思うなよ」
 特務監査室について、例の件以外の事で隠し事をするつもりはない。それよりも不安なのは、自分が寝返った事が露見する事だ。
 指定の時間までは間があるため、リアンダは一旦ベッドで横になり仮眠を取る事にした。けれど、体が疲れていない上に神経が張り詰めているせいか、目をつぶってもまるで眠れそうになかった。例え眠れなくとも、目をつぶって横になるだけで疲れはある程度取れる。そう言い聞かせながら、リアンダはひたすら暗闇の中で時間を待った。
 やがて指定の時刻が近付くと、リアンダは一人で起き上がって、ウォレンは存在しないものとした振る舞いで部屋を出た。万が一にでもウォレンの存在を大地と赤の党には知られる訳にはいかないからだ。
 指定された橋に到着すると、軽く周囲を見回して人気が無い事を確認し、保全作業用の梯子から下へ降りる。周囲にウォレンの気配も感じられなかったが、おそらくどこかから尾行はしているのだろう。下手にきょろきょろする訳にもいかず、リアンダはいつものように目的地へ向かう。
「お疲れ、リアンダ君。突然呼び出しちゃって悪いね」
 指定場所である川縁にいたのはギネビアだった。
「お疲れ様です。何か動きがありました?」
「ちょっとね。グリゼルダチェアを置いた所の一つに、警察関係者が現れたらしいの。まあ、元々警戒態勢だったから偶然だとは思うんだけど」
 昼間特務監査室で話したばかりの話題が飛び出し、リアンダは心臓が止まりそうな心境にさせられた。
 こちらが提供した情報を確かめるとは言っていたが、まさかそんな杜撰なやり方をしていたなんて。リアンダは近くに潜んでいるであろうウォレンを問い詰めてやりたくなった。
「それで見つかったんですか?」
「いえ、大丈夫だったみたい。特に押収していったなんて事も無かったそうだから」
「それなら良かった。単なる警邏ですか」
「だと良いんだけど……」
 何やらギネビアは含みを持たせるような口振りをする。
「どうしたんです?」
「いえ、ね。もしかすると、警察の方はリアンダ君に目を付けているのかな、と。最近、身の回りで変な人影を見たりしなかった? 露骨に尾行されるなんて無いでしょうけど、妙に顔を合わせる事が多い人がいるとか」