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 頬に触れるギネビアの手の感触、それを意識すればするほどリアンダは背筋が凍えて来るのが分かった。虚勢を張るだけなら誰でも簡単に出来る。けれど、度胸と虚勢に差があればあるほど恐怖のサインが体に強く出る。怖ければ背筋が凍り体が震え顔色も悪くなる。だがギネビアには一切そんな兆候が見られなかった。ギネビアは死ぬことに対して一切の迷いも躊躇いもない。リアンダは、そんな人間がこれほど恐ろしく感じるものかと驚きすら覚えていた。
「少し、震えているわね。怖い? 一緒に死ぬのは嫌?」
「俺は……この世に未練が無い訳じゃないですから」
「ステラちゃんの事がまだ気掛かり?」
「それもありますけど」
 そもそも、何故自分が心中する前提なのか、ギネビアの話し方がリアンダは理解出来なかった。そもそもギネビアは、そういった物事を正しく判断する能力が無くなっているのかも知れない。それは生きる事へ未練がなくなったあまりに精神に変調を来しているからだろうか。
「ああ、そう言えば。これもまだだったわね」
 そう言って、突然ギネビアはリアンダを抱き締めた。同時に背後に回された手がリアンダの首筋から腰にかけてを、ねっとりと絡み付くように撫で回す。恐ろしい事に、たったそれだけの感触でリアンダは死ぬことへの恐怖心が和らいだ事を自覚する。自分が女性に慣れていないから舞い上がってそう感じるのか、とても今は冷静な判断は出来なかった。
「あ、あの、ギネビアさん?」
 戸惑いながら問い掛けるリアンダ。すると今度は、ギネビアの手が後頭部へ回ったかと思ったら、次の瞬間には唇を奪われていた。予想外の事にリアンダの背筋がぴんと伸びて全身が硬直する。こんな切羽詰まった状況なのに、どうしてこんな緊張感の無い事になっているのか。頭が混乱を来してしまいそうだった。
「フフ、そんなに緊張しなくていいのに。と言っても、君じゃ仕方ないか」
「これは……何の意味が」
「大丈夫、これぐらいじゃまだよ。いっそこのままここで最後までしてしまって、君にグリゼルダチェアを触らせるのも面白いかしら? ああ、でも無粋なギャラリーもいるから気乗りしないかしらね」
 ギネビアはまともじゃない。突然の接近に困惑してまともに話せない中、思考の冷静さを保っている部分がそう結論付ける。
 視線をエリック室長補佐とウォレンの方へ向けると、やはり呆気に取られた表情をしていた。二人共ギネビアの行動に警戒はしつつも、今の所はまだ掴み所が無いと感じているようだった。
「今まで付き合ってくれてありがとうね、リアンダ君。もっと早くちゃんとお礼をしてあげるべきだったわ。でも君がこうして側にいてくれるおかげで、ずっと気持ち良く終わりを迎えられそうよ」
「それは……俺があの男の息子だからですか? あの男と良く似た表情をするから」
「もしかして嫉妬してるの? 確かにあの人もやたら嫉妬深かったわね。自分はこれでもかってくらい気が多かったくせに」
 ギネビアは何故自分と心中したがるのか。とてもまともな精神状態とは思えない彼女に合理的な理由は求めても意味は無い、そうリアンダは結論付ける。するとようやく最後の覚悟が決まった。ギネビアの胸中に踏み込む事をやめると、途端に地に足が着き心が落ち着き始めた。
「ギネビアさんは、俺やステラに随分と良くしてくれました。もはや天涯孤独のような身の上になった俺達が人並みにやれてこれたのも、全部ギネビアさんのおかげです」
「単に私は親切にするのが好きなだけよ」
「それでも感謝はしきれません。どうやってその恩に報いればいいのか、今までずっと考えて来ました。それで、きっとギネビアさんも何か人に言えない恨みを抱えているようだから、復讐の手伝いをするのが良いと思い励んできました。けど……だからこそ、俺はこうしたいと思います」
 そして。
 遂に意を決したリアンダは、自分に絡み付くギネビアを突き飛ばすように遠くへと離す。そしてすかさず側にあったグリゼルダチェアを掴む。
「さっき言った通りに!」
 リアンダはエリック室長補佐の方へ向けて、全力でグリゼルダチェアを放り投げる。普段なら重くて投げられなかっただろうが、今は緊急時のせいか力のたがが外れている。それを自覚出来るくらいの大立ち回りだった。
「何のつもり!」
 直後、すぐそばから聞こえて来たのは、これまでの蠱惑じみた仕草から一変したギネビアの怒鳴り声だった。しかしリアンダはそれに驚きはしつつもそれには怯まなかった。リアンダは真っ向からギネビアを見据えると、二人との間を阻むように立ちはだかる。
「あなたのしている事は許されない事だ! 無責任に死なず、生きて相応の罰を受けべきです!」
「奇麗事を! やはり本気で裏切るつもりね! 人の恩も忘れて!」
「俺は! 恩を感じているからこそ! あなたにこんな事をして欲しくないんだ!」
 リアンダは強引にギネビアの左腕を掴む。すぐにギネビアは抵抗してきたが、リアンダは決して離さずたじろぎもしなかった。決して逃がさない、その覚悟がリアンダからは垣間見えた。
「理解して貰おうとも思っちゃいない! だからここは、無理やりにでも従って貰います!」
「やっぱり、女の扱いがなってないわね」
 そう言った直後、リアンダに掴まれていないギネビアの右腕がしなるように飛んで来た。リアンダは咄嗟に上半身ごと顔を逸らし、繰り出された何かをかわす。
「な、何を……」
 驚くリアンダは、自分の頬に鋭い小さな痛みを感じた。それはウォレンに殴られたものとは明らかに異なる痛みである。
 切りつけられた。そうすぐに直感する。